「多くの神仏を毎日毎晩拝み、先祖供養もそつなくこなしてきているのに、私には一向に運が開けてきません。
神仏へのお詣りも全くせず、日々の感謝も何もしていない人が、のうのうと生きていて、それこそとても幸せそうに笑っている生き方をしているのを見るにつけ、自分はこんなにも神仏を信仰し、ご先祖を大切にしているにも関わらず、全く自分の思い通りの人生を送ることができないことを恨む気持ちさえ湧いてきてしまいます。
確かに神仏を大切にし、日々感謝しながら生きている人にとっては、今の人生は不平等なものだと納得もできます。あまりに自分がみじめで情けなくて・・・
ある相談者からこういったご相談でした。
「挨拶しても返事が返ってこない人がいまして、いつの間にかこちらから挨拶をしなくなったのですが、それって、どうして相手は私にあいさつしないのでしょうか?近所ですから、挨拶は必要だと思いますし、それをするのが常識という私の判断は間違いですか?
神仏を全く顧みない人でも、人生を幸せそうに生きている人がいますが、それはどうしてですか?」
私に思いのたけをぶつけてきたKさん。
Kさんは一生懸命人生を生きて来て、他の人に迷惑にならないようにと日々気を配って生活してきたのでしょう。
自分の好意を無にされて憤慨しているように感じました。
私たちは自分自身でルールや計りをもって生きています。自分の尺度で物事を考え、それを他人と比べています。そして、自分の考えや尺度と違う事には違和感を感じたり、嫌悪感を感じるのです。
自分と考え方が違うと「あの人は普通じゃない」とか、「変わっている」という表現を使い、おかしな人というレッテルを貼ってしまうのです。
子供たちにおける友達関係も然りです。発言力のある子どもが周りを巻き込んで(味方にして)一人の子供を非難したりすれば、それはイジメということにもなりかねません。
しかし、発言力のある子どもだからこそ、ポツンと一人でいる同級生をみたら、仲間に引き入れてあげたり、仲良くとまではいかないまでも、多少の言葉かけをしてあげたりしていけばいいのに、と思ったりもします。
さて、先ほどのKさんの話に戻りましょう。
Kさんは本当に毎日神仏を拝み、何かにつけ神仏に感謝し、周りの人にも敬意を払って接してきたようです。それは、私に対する言葉の選び方や話のテンポ、声量にも現れていました。
采ほども書きましたが、人はそれぞれ自分の物差しで相手を測り、そこから外れている人を「変な人」「おかしい人」と定義づけています。
しかしたいていの人は、これが正しいという、数学的なものの考え方では無く、どちらかというと、ふわふわとした、どちらに傾いてもいいような感じで人生を生きています。
他の人との調和を大切にして生きているのです。
人によっては「私が正しい」と自負する人や、「私のいう事を聞いていれば間違いない」と豪語する人もいるでしょう。
しかしそれはほんの小さな範囲で、自分の少ない経験値でものを言っている状態に他ならないのです。
Kさんに「先祖供養はKさんが自発的にしていますか?やってあげたいという気持ちからやっていますか?」とお聞きしてみました。
「いいえ、昔からみんながやっていることですから、それをなぞってやっているだけです。でもそれが普通だと思います。やっていない人がいるなんて、信じられないのですが。」とのお答え。
「では、ご両親やそのほかの方々、ご親戚などが全くやってなくて、やらなくてもいいよ、と言われたら今のようにやっていませんでしたか?」とお聞きすると、
「そうですね。やるように教えられなければやらなかったかもしれません」とのこと。
「そうなんです。ご先祖供養も感謝の気持ちも、親から子へと繋がっているのです。
小さい頃からの「こうあるべき」という刷り込みが大人になってからの人格に大きく影響しているのです。」
そう説明しますと、「う~ん・・・」とKさん。
「やはり小さいころからのしつけは、その人の人生において大きな影響があるのでしょうね・・・」と考え込んでしまいました。
ひとしきりお話が済んだところで、私はこう、Kさんに言いました。
「ご先祖も神仏も、本当に心からの感謝や祈りを期待しているのです。ですから、拝んでいればいいというものではなく、心がこもっている事が大切です。神仏への感謝、ご先祖さまの供養も、心が大切ということになります。敬う心は生きている人には表面的にしかわかりませんが、亡くなった方や神仏には本当の心や気持ちが伝わるという事なのだと思います。」
Kさんは、続けます。
「私は間違った供養の仕方をしていましたね。自分の欲求、自分の満足だけを求めていたように思います。これからは、供養の気持ちが向いたとき、供養してあげたくなった時に拝むようにしていこうとおもいました。それでいいんですよね。ご先祖には成仏していただかないといけないことはわかりますし、きっとご先祖さまも気持ちがあれば未練なく成仏してくださるでしょうか・・・」
Kさんは来室なさったときとは比べ物にならないくらいはつらつとした様子で帰って行かれました。
供養も祈りも、形ではない事をよく理解してくださったと思います。
よく、神棚は1日、15日に榊を上げ、お供えをするという事を、意気揚々とおっしゃる方がいらっしゃいます。「ちゃんと1日15日にはお供えをやっている」「今まで欠かしたことがない」と息巻く方が多いです。しかし、やってるからいいという感覚では、本当の意味でのお祀りにはなっていません。
それは「心」のこもらない、単に「飾っている」状態と一緒です。
是非、心からのお祀りをして欲しいと思います。
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